福音史家
ところで総督は祭りの際に民衆の望む囚人をひとり、釈放する習いだった。
彼のもとには当時並外れた囚人がいて、その名をバラバといった。
民衆が集まってきたとき、ピラトは彼らに言った。

ピラト
どちらの釈放を望むか、バラバか、それともキリストだと言われるイエスか。

福音史家
なぜなら彼は、イエスがねたみのために、渡されたことをよく知っていたからである。
ピラトが裁きの席に座っていると、彼の妻が人をやって、こう言わせた。

ピラトの妻
この正しいひととかかわりませぬように。この人のことで、今日夢でずいぶんうなされました。

福音史家
しかし祭司長たちと長老たちはバラバの釈放とイエスの処刑を求めさせた。
そこで総督は答えて言った。

ピラト
この二人のうちのどちらを釈放しろと言うのか？

福音史家
彼らは言った。

民衆
バラバを！

福音史家
ピラトは彼らに言った。

ピラト
では、キリストだと言われるイエスはいったいどうしろと言うのか。

福音史家
彼らはこぞって言った。

民衆
イエスを十字架につけよ！

聖書のこの部分こそが、キリスト教思想の核心である（と私は解釈している）。そしてこれまで人類は、ほぼ例外なく、聖書の言葉通りの行動を取ってきた。

２０世紀以降に限っても、人類は二度にわたり、世界大戦という”バラバ”を選び、”平和”というイエスを磔刑に処してきた。

これではいけない、もうバラバなど絶対に選ばないようにしよう。焦土になったヨーロッパ大陸で、当時の指導者たちは考えた。そのためには、究極的には欧州は一つになるべきだ、と考えた。

チャーチルは、1949年、「欧州を破滅から救う唯一の道は欧州合衆国の建設だ」と演説し、欧州大陸の統合を促した。だが、英国自身がその一角を占めることは望まなかった。おそらくは、今にいたる英国のＥＵへの消極性は、このチャーチルにまで遡る。

欧州合衆国構想はしかし、フランス大統領ドゴールによってつぶされる。彼は国家主義者であり、欧州諸国の強い統合を望まず、また英国の加入も´61年、’67年の2度にわたって拒否した。

ドゴール死後の’７３年に英国はやっと当時のＥＣに加盟したが、当時の英国はまさに英国病の症状がどうしようもなくなっていた時期である。どうあっても加盟せざるを得なかったのだろう。

しかし英国はその後、Ｍ．サッチャーにより、英国病から見事に蘇った。おそらくはその時点頃より、英国は統合された欧州へ加盟し続ける必要性が減じていたのだと思う。

欧州統合は、’９０年代の東西ドイツ再統一過程で一気に進み、ついにユーロ創造にまで至ったが、いうまでもなく、この間、英国は”大陸”とは一線を画してきた。とにかく欧州に統一市場さえあればいい、自分たちはそこに入らずとも自活できる、という考えが伏流としてずっとこの国に流れていたと言えよう。

伏流は今、国民投票によって、地上に姿を表した。それが今後大河となっていくのか、途中で枯れてしまうのか、はわからない。

ＥＵは、欧州人にとってはずっと、”イエス・キリスト”として機能してきた。とにかく、ＥＵの統合深度を強めていくことこそが、欧州の理性の深化であり、いよいよ人類もバラバの呪縛から解放された、と信じられていた。

だが、’92年のマーストレヒト条約批准の際には、デンマークとフランスで反乱が起きた。両国で国民投票が行われ、前者では否決、後者においては僅差で可決された。統合は、胎動時より、綱渡り的存在でもあった。

Ｍ．サッチャーは、’８８年、ベルギーのブルージュにあるヨーロッパ大学で以下のように演説している。

独立した主権国家がそれぞれ自発的に活発に協力し合うことが、ヨーロッパ共同体の建設を成功に導く最前の方法なのです。権力をEC本部に集中して国家を圧迫するのはまことに弊害が大きく、私たちが達成しようとする目的を損なうことになるでしょう。ヨーロッパはフランスがフランスであり、スペインがスペイン、イギリスがイギリスであるからこそ強靭なのです（横山三四郎著「超国家EC」ｐ23より　太線引用者）

このような危うい胎動を経てEUが生まれ、ユーロが生まれたわけだが、昨年発生したギリシャ問題や、昨今の移民問題などにおいて、そもそもEUのraison d'etre(存在理由）さえが揺らいできた。少なくとも、ユーロ創設は失敗だっただろう。

つまりこういう動きの中で、やはりバラバを選んでしまう民衆の動きが強まり、英国民は実際に、聖書と同じく、イエス（EU）を捨て、バラバ（EU離脱）を選択してしまったのである。


●国民投票では常にバラバが選ばれる危険がある
キャメロン首相にとっては政権維持のための窮余の策ではあったのだろうが、国民投票とはやはり相当に危険な制度であり、結局は民衆にバラバを選ばせる危険が極めて強い、といえる。

イタリアは過去二度にわたり（’87年と’11年）、国民投票を行い、脱原発が決定された。その決定は、その後同国の電力供給に不安定性をもたらし、今においても、原発による電力供給欠損は埋められず、輸入に頼り、電気料金が高騰している。

スウェーデンは’80年にやはり国民投票で脱原発が決定されたが、同国は小国であるために融通が効くらしく、結局のところこの決定はその後反故にされ、いまだに原発が重要な電源となっている。

イタリアとスウェーデンで脱原発の国民投票が行われたのは、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故、福島事故という、原発事故直後のことであり、世論が動揺している時期であった。

そうした時期に、正しい結論、すなわちイエスを選択できる人間は、残念ながら少ない。多くはバラバを選ぶ。だからこそ、国民投票は、国家の行く末にとっての正しい判断ができないのだ。

人類は無論、このことは長い経験で知っている。だからこそ間接民主主義、代議制が発達したのであり、国家の帰趨を握るような大問題は、国会で論議されて決定されるのである。

たとえば、脱原発、安保関連法、特定秘密法などがもしも国民投票にかけられたら、おそらくはすべて否決されていたことだろう。


●国民投票にはイシューに対する基礎知識が不可欠
「脳死は人の死か否か」という問題を国民投票にかけたとする。「脳死は人の死とはいえない」という結論が過半数を占めたとして、はたしてその結論に意味があるのか。

脳死にはきちんとした定義がある。その定義を理解するためには、一定以上の医学知識が必要である。

そうした知識がない人、たとえば脳死と植物状態の違いがわからない人に、脳死は人の死か、と問うことは、英語を習っていない小学生に英語の問題を答えさせるのと同じく、無意味なのである。したがって、出てくる結論も無意味。

ある人は、植物状態の身内を想像し、脳死は人の死ではない、と判断することだろう。もっと多くの人は、単純に漠然とした勘で答えることだろう。

こういう”衆愚”における決定は百害あって一利なし。まさに、イエスの人柄、功績を知らずして十字架につけよ、と叫んだ民衆と同じである。バラバは常に、あなたの隣で、オレを助けよ、とささやいている。

今回の英国の国民投票も、これに近い形でなされたことだろう。Brexit 後の自国の未来を思い描けない人、ことに老人が多くこれを支持した。（下図）



●国民投票を推進する民進党
さて日本もいよいよ参議院選である。民進党は民主党時代から実は、国民投票には積極的であった。2007年の第一次安倍内閣おける国民投票法制定時、同党は、国民投票を憲法改正以外にも拡大することを主張していた。

これに対して、自民党、読売・産経が反対意見を表明した。実は、この民主党案を主導したのが、他ならぬ、小沢一郎であった。

ことに読売新聞は、同年６月5日付社説において、［国民投票法案］「『憲法改正』に限るのは当然だ」とのタイトルで民主党案を批判している。ここに全文を掲載する。

　長年の政治の不作為を解消するため、ようやく国会が動き出したということだろう。

　憲法改正の手続きを定める国民投票法案が初めて国会に提出され、今後、本格的な審議に入ろうとしている。

　本来、超党派で成立させるべき法案である。与党と民主党が別々に提出したのは残念だが、早期成立へ、精力的に修正協議を進めてもらいたい。

　与党案と民主党案の主要な相違点は、国民投票の対象範囲や投票年齢、投票用紙への賛否の記載方法などだ。

　最も問題なのは、国民投票の対象範囲だ。与党案では憲法改正だけが対象だ。民主党案は、「直接民主制を補完的に導入する」として、国政上の重要な問題も国民投票の対象としている。

　これまでの民主党内の議論では、一般の政策だけでなく、皇室制度に関（かか）わる問題や家族制度、重大な外交関係の変更なども投票のテーマに挙げられている。

　だが、民主党の小沢代表は、国民投票法は憲法改正の「手続き法」だと言う。その手続き法に、国政問題に関する国民投票という、まったく異質な規定を置くのは、筋が通らない。

　そもそも、国政の問題に関する国民投票の実施は、議会制民主主義という日本の統治原理に反する。憲法の前文は「国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動する」としている。

　消費税率引き上げのような国民に負担を求める政策で対立した場合、反対する政党が国民投票の実施を求め、国民の「意思」を名分に政策の実現を阻むことも想定される。

　これでは、大衆迎合政治に陥る恐れがある。長期的に不可欠な重要政策の遂行を妨げ、大きな政治的混乱をもたらすことにもなる。

　民主党内でも、論議の過程で「迅速な政策上の意思決定を遅らせる恐れがある」などと懸念する意見もあったという。もっともなことだ。

　民主党案は、国政問題の国民投票の結果は「国及びその機関を拘束しない」との条項を置いている。党内外にある疑問や懸念への配慮があるのだろう。

　だが、それでも、政府や国会は、投票結果を無視できず、政治的な制約を受けざるをえまい。単に、国民の意見や考えを広く知るのが目的なら、世論調査でも十分可能なことだ。

　投票年齢や、投票用紙への賛否の記載方法などで接点を見いだすのはそう難しくないはずだ。民主党は問題の多い国政に関する国民投票にこだわらず、早期成立への環境を整えてもらいたい。